カルチャー加藤くんの文化活動

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西村賢太さんの私小説「芝公園六角堂跡 」の衝撃(ネタバレあり)

f:id:sasasava:20220211225652j:image芝公園六角堂跡 狂える藤澤淸造の残影

今月5日西村賢太さんが亡くなった。タクシーで意識を失い病院に運ばれたがそのまま息を引き取ったらしい。ぼくは訃報を聞いたときああ残念だなと思うと同時に「まあそうだよな」と納得していた。というのも西村さんの日記形式のエッセイシリーズを読み、その豪快な生活ぶりを知っていたからだ。そのエッセイには、今日何を食べた、何を飲んだ、何時に寝た、何時に起きたというのが細かに書かれているのだけれど、毎日爆食い爆飲みの連続でしかも西村賢太さんは10代の頃からのヘビースモーカー。その上朝寝て昼起きる昼夜逆転サイクルの日々。amazonレビューで匿名のユーザーに「こんな生活をしていて体は大丈夫なのか」と心配されていたほどだ。大丈夫じゃなかった。「まあそうだよな」と思った。

◼️西村賢太さんの私小説すべらない話

今回は西村賢太さんの、「芝公園六角堂跡 狂える藤澤淸造の残影」(狂える〜のサブタイトルは文庫版のみ)という本を紹介したい。その前に私小説とはなにか、西村賢太さんの私小説とはどんなものかを説明しようと思う。まず私小説とは。作者自身が実際に経験したことや心理を素材に、脚色を加えたりストーリーを膨らませて描かれた小説のことだ。つまり本当の話をベースにしているけど、嘘も含まれる物語ということだ。そして西村賢太さんの私小説はどんなものか。西村さん本人が自身の作品は笑いを想定してしていると語っている通り、西村さんの私小説はとにかく笑える。自身の情けない部分や、貧しい生活、ダメなところをこれでもかと曝け出して、ときには読んでいるこちらが引いてしまうような行動や言動もあるのだけれど、そこに必ず笑いがある。というのが西村さんの私小説だ。

自分が実際に経験したことを脚色して盛って、笑える話にする。ぼくは、「西村賢太さんの私小説」は「すべらない話」に近いんじゃないかと思う。

◼️「芝公園六角堂跡 狂える藤澤淸造の残影」

さて、ここからが本の紹介だ。「芝公園六角堂跡 狂える藤澤淸造の残影」は2015年〜2016年までの間に文芸誌に掲載された「芝公園六角堂跡」「終われなかった夜の彼方で」「深更の巡礼」「十二月に泣く」の四篇からなる連作短編集だ。ぼくはこの本をよんで衝撃を受けた。これまでも西村さんの作品は読んでいたが、これは他のどのジャンル、映画、漫画、音楽、小説でも今まで見たことがない。私小説というのはこんなことができるのかと思った。こんなこととはどんなものかを説明していく。まず、一編目に収録されている「芝公園六角堂跡」が後の三編を貫く柱となる作品だ。あらすじはこうだ。

主人公の北町貫多は大ファンのミュージシャンからコンサートの招待を受ける。ライブに高揚し会場を後にする貫多だったが、その会場の前面は貫多が没後弟子と自認し私小説を書く理由にもなった作家、藤澤淸造の死地だった。以前は頻繁に訪れていたその地から、有名な文芸賞を取りメディア露出で多忙な貫多は長らく遠ざかっていた。ここ数年名誉欲が勝り、藤澤淸造に認められるために私小説を書くという本来の目的からずれていたことを自覚した貫多はその地に佇み、決意を新たにする。そしてコンサートに招待してくれたミュージシャンに対し

「しみじみ、その意志を蘇らせてくれた、間接的な契機であるJ・Iさんとの流れが有難かった。」

と締めくくる。一編目はこんな話だ。

◼️二編目「終われなかった夜の彼方で」

そして、続く二編目。この話を読んでぼくは衝撃を受けた。どういう話かというと、なんと、一編目の「芝公園六角堂跡」の反省と後悔、ここが気に入らないとダメ出しをするという話なのだ。つまり西村さんが一編目の「芝公園六角堂跡」を文芸誌に発表しその後、後悔した実際の体験を描いた私小説であり、続編なのだ。ぼくは泡を吹き卒倒した。なるほどこれは私小説でしかできないし、見たことがない、こんなことができるのか、と思った。そして西村賢太が、北町貫多が、どのポイントを気に入らないと言っているか。名誉欲を取り払い、藤澤淸造に向き会う決意をするという話なのにも関わらずライブに招待してくれたミュージシャンに対し、

「しみじみ、その意志を蘇らせてくれた、間接的な契機であるJ・Iさんとの流れが有難かった。」

とおもねるようなエクスキューズをいれてしまった、それによって、本来のテーマが中途半端になり、ブレてしまったという部分だ。貫多の反省と後悔は延々と続き、こんなエクスキューズは削除して本当はこう書きたかったのだと、書き直した「本来の文章」を作中で発表しだすというところまで行く。自らかいた私小説の反省と後悔を書いた続編。繰り返しになるが、こんなことができるのかと思った。ぼくは最初に「西村賢太さんの私小説」は「すべらない話」に近いと思うと書いたが、もしこれがすべらない話で行われたら。こういうことになる。

ーカジノテーブルのような、大きな長方形のテールの正面にあたる一辺に腰掛ける坊主頭の男。テーブルを囲みその坊主頭の男に視線を注ぐ十数人の男たち。男たちはスーツに身を包み、にこやかながらどこか緊張した面持ち。「じゃあ、いきまーす!」高らかに声を上げ、男たちの名前が書かれた多面サイコロを両手の間に挟み、くるくると弄んだ後、円形の窪みに放り投げる坊主頭の男。サイコロは動きを止めその表に現れた名前はー。「お、ジュニア」指名を受け、話し出す千原ジュニア。「えーあのですね、我々の先輩に木村祐一さんという方がいまして、ほんとあの方、何事もすごくきっちりしてる、先輩の代表、みたいなとこありますよね。で、その木村さんがですね、加湿器を買いに行くんで『ジュニアついてきてくれ』いうて電気屋までついて行ったんですよ。ほんで、『あ、この加湿器ええな〜、じゃあ俺これ買うわ〜』言うて『店員さんごめんなさい〜これください〜』言うたら店員さんがですね、『あのこちら、青色とピンク色がございますけども、どちらにしましょう』言われた瞬間にキム兄が、『考えたらわかるやろ!』言うてブチギレたんですよ!『なんで40過ぎた男が家にピンク色の加湿器買うねん!青に決まってるやろ!』言うてるキム兄が、真っピンクのポロシャツ着てたんですわ。」爆笑に包まれる会場。満足そうに高笑いをする坊主頭の男。それを横目に、してやったりとの表情を浮かべ「いやほんまに、一緒にいるだけで、こんなおもろい話を提供してくれる木村祐一先輩、感謝しかないですわ!」と続ける千原ジュニア。弛緩した空気を仕切り直すように、坊主頭の男によって再度振られる多面サイコロ。次の話者へとバトンが繋がれ進行していく番組。すると、してやったりとのえびす顔から、徐々に苦悶の表情へと変化していく千原ジュニアの姿が。一体何がー。「えーいきまーす、あジュニア」そこで再びサイコロの表に現れるジュニアの文字。「...あのおー、さっき木村祐一さんの話したじゃないですか...、でこうこうこういうことがありました!言うて、木村さんの、その言うたら、きっちりしてる部分が行き過ぎて、こんなおかしなことなってましたよー、こんなおかしな人ですよ〜!って言う話じゃないですか。なのに、ぼく『こんなおもろい話を提供してくれた、木村さんに感謝しかないですわ』って最後言うてて、あれ、絶対にいらんかったと思うんですよね...。せっかく、きっちりしてる先輩の代表じゃないすかって、前半に振ってて、オチまで行けたのに、そこで最後にそんなこと言うたら話、台無しじゃないすか。いやほんとはこう言いたかったんですよ、ほんまは!えー、じゃあオチ言いました!ほんで『いやあの人ほんまに、こういうことあるんですわ!きっちりしてるんちゃいますよあの人、はっきり言うときます、キム兄は、派手なポロシャツ着た天然キャラですわ!』...こう言いたかったんですわ。」心痛そうな表情から語られる反省と後悔のすべらない話に、爆笑に包まれる会場。だがいまだ千原ジュニアの表情は、えびす顔再びとはいかず、苦虫を噛み潰したように沈んでいるのであった。

ということになるのだ。長くなってしまったが、これほどおかしなことが西村賢太さんの私小説では行われているのだ。

◼️三遍目「深更の巡礼」四遍目「十二月に泣く」

続いて、三遍目、四遍目はどうなって行くのかというと、三遍目「深更の巡礼」では、反省と後悔の泥沼から気を取り直し、本来の目的である、「藤澤淸造に認められるために作品を書く」ことに邁進する、という話になる。ここまではいい。続く四遍目、最後に収録された「十二月に泣く」を読みぼくはまた衝撃を受けた。どういう話か。なんと、二編目の「終われなかった夜の彼方で」で書いた反省と後悔は蛇足だったと、また反省と後悔をするという話なのである。反省と後悔を振り切ったのに、また反省と後悔を始めると言う話なのだ。その内容とは、一編目でしてしまったミスはミスとして自分の中で折り合いをつければいいものを、わざわざ二編目で私小説として作品に仕立てる必要はなかったのではないかというものだ。これまた驚嘆である。すこし構造がややこしく思う方もいるかもしれないのでわかりやすくまとめると、

一編目「芝公園六角堂跡」決意

二編目「終われなかった夜の彼方で」一編目の反省と後悔

三遍目「深更の巡礼」決意に沿って邁進

四遍目「十二月に泣く」二編目の反省と後悔

ということになる。何をやってんだこいつと思う方もいるかも知れないが、この決意と反省の繰り返しが、読んでいるととても切実で心に迫るのである。そしてまた繰り返しになるが、またしても、こんなことができるのかとぼくは思った。三遍目、四遍目の流れがすべらない話だったとしたら...。こうなる。

ー坊主頭の男によって次々とサイコロが振られ、進行していく番組。そこには、沈みきっていた表情に徐々に笑顔と自信を取り戻す千原ジュニアの姿が。「いきます、おジュニア」そこでサイコロにみたび現れたジュニアの文字。「あのーうちにはですね、残念な兄がいるわけですよ.......」笑顔と自信を取り戻し、鉄板ネタである残念な兄・せいじのエピソードを見事な話術で語るきる千原ジュニア。その姿に、会場にはまたしても爆笑が。そしてえびす顔再び、となった千原ジュニア。しかし、またしても番組が進行するにつれあの苦悶の表情に。一体なにがー。「えーいきます、おージュニア」そこで4度目となるジュニアの文字が。「...あのーぼく一本目にキム兄の話したじゃないですか?ほんで、2本目でその話のここちゃうかったなーって反省した話したじゃないすか?...今んなってあれ、いらんかったんちゃうかなって思うんすよね...。いやだってね、わざわざすべらない話ですよー!言うて、反省したってしょうがないじゃないですか。だったらそこは自分の中で処理して、2回目、松本さんが、サイコロ振りました、ほんでジュニアバーン出ました、ほんなら『いやこの前せいじがね!』ってやってもよかったんちゃうかなと思うんですよ。ただでさえ一回目、キム兄はきっちりしてる言うけど、おかしな人ですよ〜って話を、いらんこと言うて台無しにしてもうて...あれもやっぱりいらんかったな..。でしかも2回目で反省って....。もうええわ...。もうええわ!もうええもうええ、いらんかった!もうはっきり言うときますわ、2回目の反省の話あれいらんかったですわ!」最後に至っては絶叫となっているその反省と後悔のすべらない話に、爆笑に包まれる会場。千原ジュニアは苦悶に歪む表情から、無力な自分がやるせないという泣き顔に変わり、そしてその中にはどこか、そんな自分をも笑い飛ばさんばかりの決意を感じさせる色も滲ませているのであったー。

ということになるのだ。これほどまでおかしなこと、面白いことが「芝公園六角堂跡 狂える藤澤淸造の残影」の中で、私小説という形式を生かし描かれているのである。これが、ぼくが今までどのジャンルでも見たことがないと衝撃を受けた理由だ。

◼️おわりに

ここまで「芝公園六角堂跡 狂える藤澤淸造の残影」についてネタバレ全開で書かせてもらったが、この作品で描かれた決意と反省のループの切実さや、それに対する共感は実際に本を読まないと得られないものだと思う。ここまで読んで下さり興味を持ってくれた方はぜひ読んで頂きたいとおもう。

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